おばあちゃんっ子だった私のおばあちゃんとの思い出

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おばあちゃんっ子だった私 大好きだったおばあちゃんの思い出

person

私には結婚する迄、一緒に暮らしていたおばあちゃんが居ました。

今から15年前に眠る様に息を引き取りました。

明治生まれの気丈な女性だったおばあちゃんとの思い出を綴ろうと思います。


お母さん代わり

私には母の代わりだったおばあちゃんが居ました。

母もおりましたから何故母の代わり?と言うと、母はとても繊細な人で私を産んですぐに、子育てに自分がついて行けずに、精神的な病になりました。

私に母乳をあげる事も世話をする事も出来なかったそうです。

そんな時に父の母だったおばあちゃんが、私を懸命に育ててくれました。

日常の家事や子供の世話をおばあちゃんがしてくれていました。

私の下に弟も後に出来ますが、周期的に精神的と肉体的にも不調になる母に代わり、ご飯を作り、幼い頃には保育園の送り迎え、父の奥さん代わり等してくれました。

私はそんなおばあちゃんが小さい頃から大好きでいつも一緒に寝ていました。


お料理上手

おばあちゃんには得意な事がたくさん有りました。

ぬりえが得意で上手にぬりえが出来る方法を教えてくれたのはおばあちゃんでした。

どうしてぬりえが得意なの?って聞くと、私が産まれる前に亡くなった自分の旦那様である私のおじいちゃんが、着物の反物の絵を描く仕事をしていて、よく手伝っていたんだよと教えてくれました。

それも自慢のおばあちゃんの一つの要因ですが、何よりおばあちゃんはお料理上手でした。

季節のお料理をたくさん作ってくれました。

春には山に行こうと言って、近くに山に二人で出かけて、ワラビやぜんまいを採って来て美味しくお料理して食べさせてくれましたし、ヨモギを摘んで草餅を作ってくれました。

面倒だったろうにと思うのに、ヨモギを摘み、柔らかい葉だけ更に摘み、茹でてすりこ木で潰し、お餅をついてヨモギを混ぜて、中のあんも手作りしてヨモギ餅を作ってくれて春の楽しみでした。

おばあちゃんは天才だなと子供ながらに思っていました。

夏にはかき氷器でかき氷を作ったり、水ようかんを作って食べさせてくれました。

秋になると栗を剥いて栗ご飯を炊いてくれました。冬にはどこのシェフよりも上手にすき焼きを作ってくれたり、お正月にはお餅をたくさん搗いて、あんを入れた丸餅もたくさん作ってくれました。

どのお料理も私にとっては、美味しくて思い出深い物ばかりですが、一番嬉しかったのは私の頃は土曜日は半日学校でして、お昼に帰るのですが、それに合わせてお腹を空かせた私と弟に、お重箱におかずをたくさん詰めて、お弁当を作って待っていてくれました。

これが一番嬉しくて、お腹がペコペコなので本当に有り難くて、今でも思い出すと心が温かくなります。そんなお料理上手なおばあちゃんが大好きでした。


母は入退院を繰り返しておりましたし、父は残業や夜勤も有る会社で働いておりましたので、躾をしてくれるのもおばあちゃんでした。

家族で旅館に泊まりに行く事がたまに有りましたが、そこで玄関では靴が散らかっていたら揃えるんだよと教えてくれて、どちらかの旅館で靴を揃えだしたら、旅館の方に褒められて、子供ながらに嬉しくて、いつもいつも揃える様になりました。

明治生まれで自分にも厳しいおばあちゃんでしたが、躾も厳しくて間違った事をするとそれは叱られましたし、夜も遅いと叱られましたし、孫にただ甘いだけのおばあちゃんでは無く、飴と鞭を使い分けてくれた人でした。


トイレの神様

少し前にトイレの神様と言う素敵な唄が有りましたが、その唄を聞いた時に思わず、亡くなったおばあちゃんが言っていた事とあまりにも同じで、切ないやらおばあちゃんに逢いたくなるやらで、泣けました。

私のおばあちゃんも同じ事を言って、私にトイレを掃除する事の大切さを教えてくれていました。

トイレには神様が居るから、綺麗にするんだよ、トイレを綺麗にすると美人になれるんだよと教えてくれました。

小学生の頃から、その教え通りトイレは私がお掃除していました。

美人になれたかどうかは不明ですが、今は風水でも一番大事なのはトイレをピカピカにする事だと言われていますし、おばあちゃんは正しかったんだなとトイレの神様を聴いて、大事さが判っていて良かったなと改めて思ったのでした。


お出かけ

おばあちゃんはお出かけするのが大好きでしたから、免許が取れる様になったら直ぐに免許を取得しました。

おばあちゃんを乗せて色々な所に連れて行ってあげたかったのです。

東京や静岡の伊東に親戚がおりましたので、愛知から東京や伊東にも行きましたし、実家のお墓が有る御殿場にも行きました。

お正月には初日の出を一緒に見に行きましたし、桜の時期にはお弁当持ちでお花見にも行きました。

春の山菜採りにも行きましたし、2人が大好きだった海を眺めにも行きましたし、たくさん食べないくせにご飯を食べに行こうとよく言って、おばあちゃんのおごりでお昼ご飯にもよく行きました。

おばあちゃんとのお出かけの思い出は、書ききれない位たくさん有ります。


結婚

おばあちゃんのお蔭で道も踏み外さずに、順調に成長した私でしたが、おばあちゃんがやる位なら私がやらなきゃと家の事は次第に私がする様になり、働き出すと仕事と家を往復する合間に家の事をやり、買い物もして帰るのが日課でした。

父の奥さん代わり、弟の母代わり、おばあちゃんがやっていた事は私が担う様に自然になりました。

責任感も出て、私がやらなきゃ!と思っていたので、当時はそれで良いと思っていましたが、そうする日々なので彼もどちらでも良かったし、彼が出来る様なチャンスが有っても家の事が有るからなと、家優先にしていましたから、気が付くと適齢期になっていました。

おばあちゃんはそんな私が不憫で、気にしてくれていましたが、ちゃんと私にも縁が有って、結婚する事になった時には、自分の事のように喜んでくれました。

でも私は本当は又家事をおばあちゃんがする事になるので、嬉しい反面それが不安で、大丈夫かと何回も聞きましたが、その度に気にしなくて良いんだよ、幸せになりなさい、今まで頑張ったんだからもう良いんだよと言ってくれて、無事結婚したのでした。

結婚式の前夜は挨拶はしないでと言いました。人の前で泣きたくないおばあちゃんらしい発言でした。

私はちゃんと挨拶したいと言っているのに、頑固として言うなと言います。結局挨拶しませんでした。結婚式も勿論出ませんでした。

ご馳走も食べたくないし、式など見なくても私が幸せになればそれで良いんだと言って受け付けてくれませんでした。


ひ孫

順調に私の子供が産まれ、ひ孫が出来ました。

それはそれは喜んでくれて、実家に帰った時にはいつも面倒を見てくれました。

そして子育てに関して、母は子育てが残念ながら上手では無かったのでおばあちゃんが色々とアドバイスしてくれてとても助かりました。

こういう食べ物が母乳の出には良いんだとか、おやつはこういう物をあげると良いよ、離乳食はこうすると良いよ等々何も判らない私の心強い先生でした。


弱っていくおばあちゃん

私にとっては母以上の存在だったおばあちゃんがいつかは居なくなるとは、頭の中では勿論判ってはいましたが、亡くなってしまう事なんて理解しがたい事でした。

いつまでも永遠におばあちゃんはきっと生きていると思いたかった私でしたが、残念ながらおばあちゃんは知らないうちに卵巣がんに侵されていたのでした。

判った時には90歳近く、手術には耐えられないでしょうとの診断。聞いた時には耳を疑いました。

おばあちゃんも私に子供も出来たし、幸せな姿も見たし、思い残す事も無いし一日一日大事にして過ごすと申しまして、何もしませんでした。

一年位は経ったでしょう、ある日父から寝ているかと思って朝部屋に行ったら、寝ている間に亡くなったようで冷たい・・と電話が有りまして、急いで車で15分位の実家に行きましたら、本当に寝ているかのように亡くなっておりまして、最後には逢えませんでしたが安らかでしたので、来るしんだりはしなかったんだろうなと後になれば、冷静に思えますが、その時は受け入れられず頭が真っ白になったのを今でも覚えています。

今15歳の長女が産まれる3か月前に亡くなったので、何年経つなぁと言う事を絶対に忘れる事がありませんがきっと空の上の方から、見ていてくれている事でしょう。

孫の為に精一杯の愛情をかけてくれたおばあちゃんの姿を決して忘れず、報いる事が出来る様に、私も子供達にはお母さんが、まずは健康でいて心配させない様にしなければいけないし、おばあちゃんが私に注いでくれた無償の愛情を私は子供達に与えて行かなければいけないなと思っています。


まとめ

おばあちゃんっ子だった私のおばあちゃんとの思い出
お母さん代わり
お料理上手

トイレの神様
お出かけ
結婚
ひ孫
弱っていくおばあちゃん

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